千と千尋を見直して
宮崎駿監督の作品は大好きで、殆ど全ての劇場作品はDVDで持っているのだけど、とりわけスキなのは「天空の城ラピュタ」と「千と千尋の神隠し」だ。
ラピュタ(ともののけ姫と未来少年コナン)は、「男の子」が「男」になる話で、男的に見ていて普通にワクワク出来る。その他の殆どの宮崎作品は、「女の子」が「女」になる話である。これは監督が女の子の方を好きだからんだろうけど(笑)、その中でも千尋は色々な見方が出来て楽しい。
(1)オタクたちの下世話な解釈
鈴木プロデューサも元ネタとして明言しているそうだけれども、あれはダメな両親のせいで、水商売で働かされる娘の話という見方。確かにみたまんまに解釈するとそうだ。名前を取り上げられ(源氏名をつけられて)、汚いお客の相手をする役周りというのは、本当に下品だけど、そういう事なんだと思う。穢れとして現れた河の主のおじいさんが、孫のような娘に癒されて元気になって帰っていく(この時、入り口の屏風には回春と書かれている)辺りや、子供相手なのに金を出して無理矢理千を買おうとするカオナシなんてのは、解りやすい描写である。多分とは思うけど、最初に千尋の体が薄れ掛けた時にハクが食べさせた丸薬で千尋は初潮を迎えて、成人したことになって水商売OKになったので、油屋に就職できた、という流れもなんとなく理解できる。
でも、そういう風にみるとつまらない映画になってしまう。だから、私は2つの違う見方をしている。
(2)核家族問題としての解釈
恐がる子供を気にせず、マニュアルのアウディの四駆で泥道を走るバカな父親、子供が恐がっているのに冷たく突き放そうとする母親。子供が帰りたがっているのに二人でどんどん奥に行ってしまう両親。千尋は親に恵まれていない。
でも、千尋が入った不思議な世界には2組の祖父、祖母役が出てきて千尋を助けてくれる。厳しいしつけをするのは湯婆、優しいのが銭婆。二人のおばあちゃんによって、千尋はしっかりしつけられて、ついでに助けても貰う。おじいちゃんも二人居る。一人は釜爺。私の子供の頃もそうだったけど、お小遣いをくれてわがままを聞いてくれるのは優しいおじいちゃんだった。多分高価であろう電車の券をもう使わないから、と気前良くくれたり、孫娘(千尋)のBFのハクの面倒を見てくれたりと、優しいおじいちゃんだ。もう一人が河の主で、トゲを抜いてくれた孫娘にやはりBFを助けるための沼団子をくれる(河の主が、男の孫=ハクを助けてくれたとも捉えられる)。
ダメな両親に代わって、祖父、祖母が厳しく、優しく接してくれるというのがこの映画のテーマの一つだと思う。電車で一人でおばあちゃん(銭婆)のところへ行くシーンなんて、凄くわかりやすい。両親が自分の好きなことばっかりやってダメな豚になっている、そんなかわいそうな千尋にお爺ちゃんが電車代をくれて、おばあちゃんのところへ行かせてくれる。おばあちゃんはお土産に手編みの髪留めをくれる。
お話の終わりの頃には千尋はすっかり大人になっていて、もうダメな両親の事はアテにしていないだろう。優しく厳しかった祖父と祖母と、昔出合って再会したBFのことを思い出に頑張っていけるだろう。という解釈。千をエレベータで最上階まで運んだ大根の神様も近所の優しいおじいちゃん風味だった(あれもオタク的に言えばセクハラになるのだけど)。
そういう風に捉えて千尋を見ると、祖父、祖母への感謝の念がこみ上げてくる。これはこれで結構泣ける話だと思う。
(3)神話的解釈
私が一番好きなのはこの解釈で、それは自分も神社仏閣が好きで、小さい頃神社で不思議な体験をしたり、今でも祭太鼓を叩いたり、神輿を担いだりするからなのだけど。
千尋(達)は、最初の鳥居を通り過ぎて、舗装してない道に入ってから、犯してはならない神の領域に入ってしまったのだと思う。鳥居を過ぎた時点でもうそこは別世界。だから、行きと帰りでトンネルの建物も、車止め(最初は(顔があったが最後はただの岩になっている)も変化している。狐に化かされたように車もイタズラされている。
最初の鳥居をすぎた後にあったたくさんの小さな祠が油屋の前の街並で、途中で渡った小川が門の向こうにあった川だ。最後の「モルタルで出来た門」には湯屋と書いてあって、これが別世界に入ると「油屋」に変わる。神域を侵した罪で、鳥居からモルタルの門までの間に一家が閉じ込められてしまった話と私は考える。そこで、ダメな両親(神域を侵した上に、お供え物を食べた)に変わって、無垢な千尋が神様に許してもらうまで働く=神隠しに遭ってしまった、というところでしょうか。
ちなみにハク(ニギハヤミコハクヌシ、爾宜速水小白主?)は、マンションで潰されてしまった小白川に住んでいたので、新しい神域を求めて彷徨っていたのだと思う(私は千尋に憑いていたのではと思うが(笑))。そこで元々の地主である銭婆と油婆に交渉したのだと思う。ちなみに私が考えているのは、油婆というのは油というくらいだからコックリさんではないかと思う。油揚げ。銭婆はお賽銭箱を想像させる。釜爺は、よく神社にいて虫を食らう蜘蛛だ。カエルやナメクジなど、いかにも田舎の神社に居そうな連中が人型となって登場するのは、日本の昔話によくあるパターンだと思う。コックリさんは、大抵の神社の横に狐塚として存在して、江戸時代はちゃんと油揚げなどを備えたものだ。
で、名無しの竜になってどうしようもなかったハクも本来の名前を千尋に思い出してもらって、最後に門番のコックリさんと交渉するという流れなんだろうと。私の想像では、途中にあった小川(あっち側の世界では干上がったり大河になったりする)に住む事になったのではないかと考える。
山の上に住むことになった千尋が、ちょっと森を散策してあの小川に出合えば、二人が再会したことになるのではないかと考えている。
私は実家に帰ると、サーフィンをしたりはするけれど、すぐ裏にある熊野神社に御参りに行く。そして、境内でちょっとボーっとしてみたりする。そういう田舎を持っている人間にとっては、(1)の解釈は下品すぎて受け入れられない。(2)+(3)として見られる人間の方が健全なんじゃないかなぁ、と思う。
ちなみに、私も小学生の頃、やっぱり海で溺れかけた時に、偶然の波でブイに当たり、命からがら浜まで戻った経験があります。だから、鴨川の弁天島にはやはり良く御参りに行くのです。河の神様は男ですが、海の神様といえば弁財天ですからね。助けてくれた女神様に感謝しに行くのでした。弁天様は自分の名前を忘れたりしないと思いますけどね(笑)
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コメント
はじめまして!
「千と千尋」についての分析、とても興味深く、感心して読ませて頂きました。
宮崎駿の映画は色んな解釈が出来ますよね。
(1)はよく言われてますが、(2)や(3)はなるほどと思いました。
私もジブリアニメは大好きで、全部見ています。ブログにもレビューを書きましたので(おちゃらけてますが)、ぜひ遊びに来てください(^o^)/
投稿: カルパッチョ森本 | 2007/09/17 18:28